「ともだち100人できるかな♪」って……友だち100人もいらんっ!

子どもの頃から感じていたけど、「友だちは多ければ多いほど良いことだ」みたいな空気があって、「友だちが多い奴は友だちが少ない奴より人として優れている」みたいな印象を持たれる。

果たしてそうか?と思う。

“友だち”とググッてみると「互いに心を許し合って、対等に交わっている人」と出た。

人によって“友だち”の定義は違うのだろうけど、上記の意味合いで考えると、そんな人がたくさんいるわけない。と僕は思う。

そりゃ、どんな人とも友だちになれたら素敵なことかもしれない。

そんな人がどんどん増えたら、世の中から争いなんてなくなるかもしれない。

でも、実際はそうでもない。

「世界を見れば」とか大袈裟なことを言うまでもなく、身近なところに目を向けてみれば、しょうもないイザコザが山ほどある。

人間が大勢いたら、その中に考え方や気が合わない人がいて当然。だから、世界はおもしろい。違いを認めることは大切だけど、それに合わせる必要はない。

「ともだち100人できるかな♪」なんてのは単なる理想にすぎないのだ。

それなのに、この理想的価値観が、ある種の脅迫となって特に子どもたちを苦しめている側面は否めない(歌っていうのは理想を語る役割を担って然るべきだとは思うけど)。

閉ざされた環境で友だちができない自分を責めてしまう。

クラスのみんなと仲良くできない自分を責めてしまう。

もちろん、すべての現象について外部に原因を求めてしまうのは良くないことなのかもしれないけど、ありのままの自分をさらけ出して友だちができなかったとしたら、もうあきらめるしかない。

というか、あきらめたらいい。

それはあくまで「その閉ざされた環境で友だちができなかった」というだけのことだから。

決して悪いことでも何でもない。その環境から飛び出たとき、そこで“友だち”に出会えるかもしれない。

超短期的な視点で見る「友だちの数」なんて、人の優劣を計る物差しになりゃしない。いわば、友だちが多い人は、友だちを作るのが得意なだけ。

友だちが多い人を別に否定はしない。ただ、友だちが少ないからといって何の引け目を感じることはないのだ。

友だちを作るために自分を無理して偽ったって、しんどいだけ。そんな付き合いは時間の無駄。だからといって憎むのも変な話なので、それなりに付き合っとけばいい。

「誰とでも仲良くしよう」ってのは、ちょっと無理があるね。こっちが友好的にしようとしても、相手がそうでないこともあるから。

上の言葉には、せめて一言を付け加えないと。

「(友好的な態度を示す人とは)誰とでも仲良くしよう」

若ければ若いほど時間は無限に感じられるけど、生まれた瞬間から時間は有限。

限られた時間を誰と過ごすか。本当に気の合う友だちと過ごした方が絶対に楽しい。

そのためには自分を無理して偽ったりしないこと。素の自分を受け入れてくれる友だちは、広い世界に必ずいるから。

(だから死ぬんじゃないよ)