小説『I love Dogs.』(1)

私は、愛犬家という人種が嫌いだ。別に、犬を愛する、その行為自体に嫌悪感を抱くことはない。何かを愛することは悪いことではないし、動物とはいえ、それに応えてくれることで心が癒されるのは疑わない。

「我が犬を愛せよ」

そう強制してくるような人種が嫌いなのだ。そういう人たちは、自分が飼っている犬なら、国境や性別、宗派の違いも乗り越えて世界中の人たちが可愛がるとでも勘違いしているのではないだろうか。そんなことは、当たり前だが、ありえない。さまざまな理由で、犬を苦手とする人たちは決して少なくないどころか、大勢いるのだ。さまざまな理由と書いたのは、中にはアレルギー症状を伴うような病気の一種が原因であることもある。例えば、卵アレルギーなら卵は食べない。それと同じで、犬アレルギーなら犬を遠ざけようとするのはごく普通の話で、いわば防衛本能だ。それなのに、そんな事情も知らないで「あんなに可愛い犬が嫌いだなんて、人でなしだ」なんてことを吹聴するのは、それこそ人でなしのすることだ。

冒頭に述べたとおり、私は愛犬家が嫌いなのだが、犬そのものを好むか好まざるかについて、はっきりさせておいた方が良いだろう。犬が好きかどうか。私は、犬が嫌いである。アレルギー症状を伴うような病気は幸い無い。ただ、純粋に犬が嫌いなのである。取り立てて、犬だけが嫌いなのではない。人間以外の動物全般が苦手なのだが、子どもの頃から日常生活の範囲に犬や猫がいたため、どうしても彼らの存在が目立ってしまう。

ちなみに、私は猫も嫌いだが、どういうわけか愛猫家は嫌いではない。これについて自分なりに分析してみたのだが、自由気ままに生きる猫を飼う人たちは、その特性を理解したうえで、何かを強制するようなことが少ないように感じる。一方、犬を飼う人たちは支配欲が強い。何かと芸事を身に付けさせ、思いのままに操ろうとするのは、むきだしのエゴ以外の何物でもない。犬に対する征服心が、知らず知らずのうちに、そのまま他者に対しても表出してしまっているのではないか、というのが私の見立てだ。もしかしたら、もう間もなく愛猫家のことを良く思わなくなる可能性もゼロではないが、今のところは愛猫家に敵意はない。

では、なぜ私が、犬そのものを越えて愛犬家を嫌いになったのかというと、それは幼少期に理由がある。私は幼少期、ある地方都市の小さな下町で育った。出身地を聞かれたとき、その地方都市の名を伝えると、たいがい好意的に受け止められる。全国的には、港町として異国情緒が漂うおしゃれなイメージが付きまとう街だからだ。山と海に囲まれ、ハイカラ文化の発信地。だが、それはほんの一面に過ぎない。その街を一軒家に例えれば、門構えとその周辺だけが美しいだけだ。過度の期待を胸に門をくぐって歩みを進めてしまえば、扉に到着するまでのわずかな庭の風景だけでも気を落とすことになるのだろう。私が育った下町といえば、おしゃれなイメージとは程遠い。しかし、そんな町にも、それなりに味わいはある。B級グルメが注目を集め、ディープ・スポットとして雑誌に紹介されることも増えた。町は大きく変わっていないのに、それっぽいキャッチフレーズを付けるだけで箔が付いたように映るのだから、広告のプロの腕には感嘆するばかりだ。ただ、私自身、生まれ育った町を好きになったのは、大人になってからだ。社会に出て行動範囲が広がるにつれ、郷土愛のような感情が芽生えたのかもしれないし、もしかしたら、無意識のうちに広告のプロたちによる洗脳を受けたのかもしれないが、それはわからない。経緯はどうであれ、今では人並みに地元愛を持つようになったのだが、幼少期は自分の町が好きではなかった。

私が生まれ育った家は、路地にあった。その路地には住宅がひしめき合い、隣の家とはベランダを跨げば渡れるほど密着していた。向かい合う家とも、挟み合うコンクリートの長さは2メートルほど。軽自動車が通れるくらいしか離れていなかった。この物理的な接近は、どうやら住民たちの他者への接し方にまで影響を及ぼしていた。いわゆる「人付き合いが盛ん」という人情味ある話の次元にとどまらず、パーソナルスペースが狭く、パブリックスペースがやけに広いのだ。人の心に土足で踏み込んでくる、とまでは言わないが、ひとたび家から外に出たらやたらと声をかけられたりするし、何かと行動を詮索されたりする。私は、それが嫌で嫌で仕方なかった。だから、近所の人とは意識的に距離を置くようにした。おそらく、子どもっぽくないように大人たちの目には映っていたに違いない。「おとなしいね」と、なぜだかやや皮肉っぽく言われることが多かった。さも、おとなしいことが悪いことのように。それは、あなたたちが抱く、そうあってほしいと願う「地域の子ども像」にそぐわないだけだろう。

そんな狭苦しい路地には、犬を飼っている家も何軒かあった。家の前で友だちと鬼ごっこやかくれんぼをしていると、その反対の方からワンと鳴き声が聞こえる。見てみると、大きな柴犬がこちらに悠然と向かってくる。しかも、二頭だ。リードが付いているものの、それを持つおばさんは犬たちに引っ張られているようにしか見えない。身体は棒のように細く、目はくぼみ、髪は後ろで一つくくり。犬に引っ張られるガイコツのようだ。私たちに近づくと、ワンワンと鳴き声を大きくし、お犬様のお通りだと言わんばかりに道を開けさせる。リードを手にしたガイコツおばさんはと言うと、悪びれる様子もなく、平然としている。私は犬が嫌いだから、いつも遊びを中断した。そのたび、友だちから非難されることもあった。

「大丈夫。噛んだりしないから」

いや、それはわかっているのだ。噛まれる道理なんてあるものか。この飼い主は、私たちが親といると愛想が良いくせに、子どもだけでいるときはまるで虫けらでも見るような目つきで視線を寄越していたから相当にいけ好かなかったが、犬を散歩させるときは必ずリードをしていたから、許してやった。

腹が立ったのは、我が家の斜め向かいに住んでいる中年の男だ。その男は、小型犬を飼っていた。誰にでも愛想がよく、ニコニコとしていたため、私たち子どもからも悪くは思われていなかった。しかし、この小太り中年は、いつも小型犬を路地に野放しした。朝の早い時間帯を選ぶなど、小太りなりに一応配慮をしていたようだが、その時間帯に決して誰も現れない保証はない。そう、私だって朝早くに外に出ることもある。靴を履き、扉を開けて玄関に出ると、突然、その小型犬が息を切らしながら私の足元まで走ってきてキャンキャンと吠えた。驚くし、気持ちの良いものではない。思わず後ろにたじろぐと、その男は微笑みながら「噛まないから」と言いのけた。違う、そうじゃない。だから、噛まないのは当然のことだ。噛まれたりでもしたら、すぐに警察を呼んでやる。この国は法治国家なのだ。飼い主に、それ相応の賠償を負っていただく。そうではなく、そんな問題以前に、犬にまとわりつかれるだけで私は虫唾が走るのだ。噛まれないにしても、嘗められるだけでも不潔に感じる。年頃の女の子が、それこそ中年のおやじに嘗められたりでもしたら発狂すると思うが、私にとって犬に嘗められるのはそれと同じだ。

このとき、私は悟った。小さな頃から何となくわかっていたつもりだったが、改めて悟った。恋は盲目とはよく言うが、愛犬は盲目なのだ、と。ここ数年は、空前のペットブームで、ますます犬嫌いを公言しにくくなった向きがある。でも、断言したい。

私は犬が嫌いだ。そして、愛犬家がもっと嫌いだ。

(2に続く)

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