小説『I love Dogs.』(4)

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私は、出社すると硬直した。文字通り身体がかたまり、ほんの数秒、呼吸をすることも忘れてしまった。口はだらしなく開いたままだ。壁には、色使いが派手な絵がいくつか飾られ、床には緑色のカーペットが敷き詰められている。カレンダーや賞状は見当たらない。応接用の木製のローテーブルは、天板がガラスでできた漆黒のものに変わり、生地が破れかけた四個のソファも淡いグレーのものに新調されていた。しかも、キツい香水のような香り。見ると、書類棚の上に木の棒が刺さったアロマオイルらしきものが置いてある。靴のサンプルから発せられるシンナーのようなにおいは、葬られてしまっていた。私に気づいたさとみちゃんが座ったまま、声をかけてきた。

「おはようございます。一気におしゃれになりましたよね。なんだか別の会社みたい」

彼女の目はランランとしていたが、すぐに不思議そうな顔をした。私から「素敵だね」などという言葉が出てくるのを期待していたのかもしれないが、そんなふうには思えない。「勝手に、なんてことをしてくれたんだ」。心の中で叫ぶ。動悸が早くなるのを感じた。さとみちゃんが言ったとおり、これでは別の会社みたいじゃないか。社長やコバさんが築き上げてきたものを、クロフネは一瞬で消し去るつもりなのか。私に対し、さとみちゃんは「変な人」と言わんばかりにぷいっと顔を背け、ポニーさんと談笑を始めた。「メーカーなんだから、これくらいおしゃれじゃないと」とか「アメリカ帰りはセンスあるよね」とか口々に言いのけている。コバさんは下請け先に直行の予定だったはずだ。そういえば、各々の予定を書き込むホワイトボードも無くなっている。私が立ったままでいると、扉が開き、あの陽気な声が鼓膜をがさつに揺らした。

「グッドモーニング!エブリワン!みんな、気に入ってくれた?」

振り返ると、クロフネは両手を開いて満面の笑みをたたえていた。さとみちゃんとポニーさんは立ち上がってクロフネに近づき、尻尾を振っている。クロフネは満足気だ。この女たちは石鹸で魂を売ったのか。パートに責務を求めてはいなかったが、さすがに仁義としてどうなのか。

「君は、どう?」

クロフネが私に聞いてきた。その眼差しは純粋に見える。しかし、クロフネの意図はわからない。

「あんまり気に入ってないかな?」

否定で聞かれると、それを否定してしまうのは、どうしてだろう。私の口は「そんな、そんな。おしゃれですよね」と自動で動いていた。ふと、視界に入ったさとみちゃんの目つきが冷たく思えた。「お前の仁義はそんなもんかよ」と言われているように感じたが、気のせいだったかもしれない。クロフネは私の肩をバンバンと叩きながら「オーケー!オーケー!」と連呼し、新調されたソファに腰かけた。そういえば、クロフネの席はない。川村社長も自席は設けず、ソファに座って作業や考え事をしていたのだが、そのスタイルを踏襲するつもりなのだろうか。席に座って、ぼんやりとクロフネの顔を眺めていると、目が合った。はっとした私は、すぐに下を向き、ノートパソコンを準備する。その場に立ち上がったクロフネは両手をポンと叩き、他人の意識を力技で引っ張ると、「みんな、聞いてくれ」と告げた。

「今日から、というか明日から、出勤するのは週に一度、月曜日だけで良い。しかも、午前中だけで十分だと思う」

ぽかんとしているのは私だけではなかった。さとみちゃんもポニーさんも目が点になっている。

「オーケー、オーケー」

何が「オーケー」なのかわからないが、クロフネは歩きながら私たちの島まで近づき、その周りをウロウロしながら演説を続けた。まるで、新商品を発表するスティーブ・ジョブズのように。ちょうど、この日のクロフネも格好も、デニムにグレーのニットといったものだった。

「これからは、当社もITをガンガン活用する。必要なデータ類はセキュリティをかけたうえでクラウド上に保存しておけばどこでも作業ができるし、会議や打ち合わせもスカイプなどを使えば同じ時間、同じ場所に集まる必要はない。就業時間もフレキシブル。成果さえあげてもらえれば、会社としてオーケーだ!」

高齢化が進む日本において、私は比較的若い方だとは思うが、地元の中小企業で働いてきたこともあり、IT関連の知見はあまりない。いくつか横文字が出てきたが、クロフネは早口だし、最後の「オーケー」くらいしか理解できなかった。合点がいっていないのが丸出しの間抜けな顔をしていたのだと思う。私を一瞥したクロフネはニコっと笑い、もう一度、両手をポンと叩いた。

「要するに、君たちは自由になれるわけだ。時間も場所も拘束しない。ただ、仕事はしてもらわないといけないけどね!どう?悪くない契約だろう?」

クロフネは自身の提案の素晴らしさを疑っていない。それどころか「どうだ、俺の手にかかれば、こんな会社だって変革できるんだぞ」と熱心にアピールしているように映る。さとみちゃんとポニーさんは好意的な反応を示した。そりゃ、そうだろう。給料が同じで、出社せずに自由な時間が増えるとなれば、歓迎するに決まっている。コバさんはこのことを知っているのだろうか。だが、クロフネに尋ねるのは恐くてできなかった。私も、毎日直行直帰できれば、肉体的にはかなり楽になるだろう。これまでは、必ず会社に寄ってから帰り、できるだけ直帰は避けてきた。川村社長やコバさんから、そう命じられたわけではない。ただ、私自身の働き方として、一日の終わりに顔を合わせて川村社長やコバさんと言葉を交わすことが習慣になっていたのだ。週に一度の月曜日を出勤日として残しているのは、クロフネなりの配慮らしい。いきなり完全に自由化されると戸惑うだろうし不安だろうから、当面は月曜日には集まって話をしようという。「みんなでランチにでも行けたら良いね!どこかおいしいレストランある?」と、クロフネはさとみちゃんとポニーさんとスマホ片手に盛り上がっている。

IT化にはメリットが多く、それ自体に私は反対しない。もし、私の友人の会社にこのような変革がもたらされれば、私は友人にお祝いの言葉を述べるだろう。しかし、腑に落ちないのだ。過去からいた人間が過去を美化し変化を拒めば、それはすなわち、老害だ。私は三十歳過ぎにして老害になり果ててしまったのか。クロフネたちが賑やかに話す傍らで、私は自己嫌悪に陥り、半分ほど開けていたノートパソコンをそっと閉じた。

この日は、社内で作業をするつもりだったが、居ても立ってもいられなくなり、会社を出た。「行ってきます」と言うと、クロフネは気兼ねなく送り出してくれた。行く当てもない私は、駆け込むように近所のカフェを訪れた。青いドアを開くと、細長い店内の奥から「いらっしゃい」と、私の鼓膜が喜ぶ声が聞こえてくる。入口から数えて三つ目、一番奥の二人掛けテーブルを選び、座面がエンジ色の椅子に座った。その少々甲高い声に似つかわしくない、鼻の下と顎に髭を蓄えたマスターに、ホットコーヒーをオーダーした。マスターが厨房に戻ると、店内には芳しいコーヒーの香りが立ちこめる。ここは、シューズカワムラの貼り紙を見つけた運命の日、妙に気になったカフェ「ケセラセラ」だ。あの数日後、散歩がてら初めて訪れた私は何度か足を運び、今ではすっかり常連だ。土鍋で淹れられたコーヒーを飲みに来ることもあるが、ひとりで昼ご飯を食べに来ることもある。特に「焼きカレー」が絶品で、ピリ辛のカレーの中に隠された生卵をスプーンで割って混ぜると、まろやかなコクが生まれ、どんどん食が進む。ただ、私がこの店を気に入ったのは、コーヒーやカレーのおいしさだけが理由ではない。何とも居心地が快適なのだ。店内にはジャズが流れ、本棚にはマスターが選んだと思われる小説がたくさん置かれてある。読むのは客の自由だ。おいしいコーヒーに、流れ続けるジャズと、名作。これだけ揃えば、客の滞在時間は否応にも長くなり、もしかしたら経営的には不利なのかもしれないが、ここのマスターは客を急かすことはしない。やすらぐ時間、それを提供しているのだろう。私は、仕事に失敗したりして気分が滅入ってしまったときにも切り替えるためによく来るが、私の浮かない顔を見ても詮索するようなことは絶対にしない。私の気分がどうであれ、ずっと同じだ。いつもコーヒーの香りがし、ジャズが静かに流れている。この「ケセラセラ」のトレードマークは、看板にも描かれているとおり、猫とカラス。描かれている大きさの違いから、猫がメインでカラスがサブであることにはすぐ気づいた。マスターは無類の猫好き。毎年、春頃には「猫展」と称し、プロの絵描きが手がけた猫の作品が店内の壁を飾る。私は猫が好きではないが、このカフェの壁にかけられた数々の猫のイラストには惹きつけられた。それを見ている間も、マスターは「どうですか?良いでしょう?」なんて野暮なことは言ってこない。私がその絵を見つめている時間を、尊重してくれるのだ。

マスターがコーヒーを運んで来てくれたので、カップを持ち、一口すすった。私はブラック派だが、安いブラックコーヒーは苦いばかりで刺激が強い。おいしいコーヒーというのは、ほろ苦さの中に必ず甘味がある。そう、苦いだけでは駄目なのだ。窓から路地を見た。十年前、この道を歩いて、私はシューズカワムラに出会った。この路地も、このカフェも、何も変わっていない。ただひたすら、ぼーっと眺めていると、この地球上でシューズカワムラだけが変わってしまったように思えて胸が詰まった。無論、そんなことはありえないのだが。

(5に続く)

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