ショートショート『ココロの飢え』

ショートショート『ココロの飢え』

ココロはペンを置いた。

これは何も単なる動作の描写ではない。突然、ココロは小説を書くことを止めてしまったのだ。あんなにも夢中だったのに。

僕がココロと付き合い始めたのは今から2年前の秋。

いわゆる合コンでの出会いだったが、当時30歳を間近に控えたココロは、どこか余裕を感じさせるほどつまらなそうにしていた。どういうわけか、そんな冷めた表情に惹かれた僕は、何とか連絡先を交換するやいなや、猛アタック。

何回目かのデートで「付き合ってほしい」と口にするとき、心臓が飛び出そうなほど緊張したが、ココロは素っ気なく「いいよ」と言ってくれた。こんなにもドキドキしたのは、28年生きてきた僕の人生で初めてのことだった。

「でも、条件がある」

「何?」

「結婚は考えないでほしい」

意外だった。「30歳にもなれば、そろそろ女性は結婚を意識する」。僕はそう信じていたし、僕のように思い込んでいる人は少なくないはずだ。だから、女性個人特有の意思はどこかに追いやられ、それがさも絶対不変の真理かのように社会に重くのしかかっている。僕がこういうマジョリティ側の人間だからこそ、そこに媚を売ること無く生きているココロにそそられたのかもしれないと今になって思う。

ココロは小説を書いていた。

聞けば、20歳の頃から書いているという。ただ、それでお金を稼いでいるわけではない。医療事務として働く傍ら、平日の夜や休みの時間を執筆に充て、作品を書き上げていた。他人から見れば「趣味」に分類されるだろう。でも、それに懸けるココロの熱量は、彼女の言葉にとどまることなく、あふれ出していた。

付き合って数か月後、デートの帰り道に僕はココロに聞いたことがある。

「ココロは、プロの作家を目指さないの?」

信号待ち。ココロは僕の目をじっと見つめたが、すぐに前を向いた。

「どっちでもいいかな」

「どうして?小説を書くのが仕事になれば、ずっと書いていけるのに」

ここで信号が青に変わって、ココロは無言で歩き始めた。コートのポケットに手を突っ込んでそそくさと歩く彼女の後を、僕が少し早歩きで追う。政治家に密着する番記者のようだが、これが僕らの日常でもあった。

ココロが住むマンションまで送り、僕が帰ろうとすると呼び止められた。

「私、今のままでもずっと書いていくから」

なのに、突然、ココロは小説を書くことを止めてしまった。

思い当たるのは2か月前。ココロの部屋でのことだ。週末、遊びに行くと、僕は驚いた。出迎えてくれたココロの目の周りが真っ黒なのだ。涙でマスカラが落ちていた。理由を聞いて、さらに驚いた。彼女が差し出したのは一冊の文庫本。

「この小説、すごかった」

頬を紅潮させ、珍しく興奮していた。ココロは、自分が小説を書くようになってから、他人の小説はもとより、ドラマや映画で泣くことができなくなってしまったらしい。「どうしても、作り手の視点で読んだり観たりしてしまって」と、半ば自嘲気味に告白していたことを思い出す。そんなココロが、誰かの小説で泣いた。

それから、ココロの饒舌は止まらなかった。こんなにも楽しそうに話すココロを見たのは、初めてのことだった。

「なんだろうね。スッキリしたっていうか何ていうか。ほんと、ため息しか出ない。すごすぎ。偉そうに小説なんか書いておきながら言葉にできないんだからイヤになっちゃう」

そして、独り言のように付け加えた。

「もう、書かなくても良いって思えるくらい」

僕は、子どものように目を輝かせて話すココロに喜びを覚えるだけだった。

ココロが小説を書くことを止めてから間もなくして、彼女から別れを切り出された。有無を言わさない決定事項。悲しいけど、ココロのことが大好きだから受け入れて項垂れるしかなかった。

ココロは、なぜ創作を止めてしまったのか。僕は、その理由かもしれない可能性を探るため、図書館に向かった。手にしたのは『創作の欲望』という厚い本。開くと、埃のにおいが鼻についた。

『人間は、自らの心の飢えを満たすために創作をする』

この本に書かれた一文に、僕は胸のつかえがゆっくりと下りていくのを感じた。ココロは、自分の心の飢えを満たすために小説を書いていたのだ。もがき、苦しみながら。そんな中、偶然出会った誰かの小説が、偶然にも彼女の飢えを見事に満たしてしまう。

そういえば、ココロはこう言っていた。

「もう、書かなくても良いって思えるくらい」

僕と別れたのは、このまま安住してしまうのを拒否したからでないだろうか。ココロは、きっと自分のために戦っていたいんだ、いつまでも。

そう考えるのは、失恋の傷を早く癒やしたい僕の希望的観測に過ぎないのかもしれないけれど。

fin.

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